現代における神話的セレブレーション―花嵐「果肉03」

 (2003/3/3 アジアダンス会議 @京都芸術センターフリースペース

ライター/高以良潤子

「肉体そのものは虚無である」というピカソの言葉に着想を得たという「果肉03」。しかし私は、この作品から人間の肉体の雄弁さや、人間の骨や筋肉、皮膚の美しさを使って生まれる表現の可能性を強く感じた。

 琴、笙や笛、古の日本を思わせる音楽が流れ、厳かな雰囲気が漂う。そこに、黒い岩、を上に載せた白い上半身が現れる。腰からは左右に深いスリットの入った黒い布が垂れ下がり、一人の人間であることはわかるのだが、黒い岩と上半身が際立って存在感を放っている。黒い岩にはでこぼこがあり、前後にも厚みがある。ゆっくりとした動きでその変な黒い岩が舞台奥から客席の方に迫ってくる。実は、黒い岩のように見えるのは掲げた両腕が頭の横に上がっていて、両腕と頭がすっぽり黒い布で被われているからなのだが、はじめは腕がどこにあるかわからず、腕のない人のようにも見える。黒い岩と腰から垂れ下がる黒い布、この二つで上下が黒で覆われているために白い上半身が浮き立つ。白い皮膚に、乳首が目立っている。呼吸とともにあばら骨と乳首が上下し、上半身がそれだけで別のいきもののよう。照明で効果的に浮き上がった骨のラインが美しい。白く美しい曲線、美しいお腹、へそをもったへんないきものが息づく。手足のあるヒトの形をとっていないのに、そこで確かに生きている、息づいているという感覚が舞台から客席に伝わってくる。

 鐘の音が響くと変化が起きる。徐々に黒い岩が崩れ、おそらく頭の上か後ろで組まれていたであろう白い手、両腕が黒い岩を形作っていた布を身体の方へ押し下げていく。両腕と頭が出現し、ヒトの形があらわになっていき、新たないきものが生まれた。自らの存在に無自覚に生きる動物ではなく、意志や精神性をもったいきもの、人間だ。舞台の上には、黒い服をまとった女性のダンサーがいる。その顔は、はじめて明るい光に照らされた世界を見たかのように新鮮な感動を得た表情をたたえており、ダンサーが内包していた精神が覚醒したことが感じられる。ダンサーがヒトの形をあらわしたのと前後して、音楽は電子音に変わる。覚醒、精神性の誕生は喜ばしいことだが、皮肉にも精神性が生まれると同時に、生きることに対する葛藤が生まれる。ここではじめて私は、私たちが生きている現実とつながっている地平でダンサーが踊りはじめたと感じた。舞台上が古代や神話の世界から現実、現代へと移行したのだ。現代を生きるダンサーと、それを取り巻く環境との間には違和感が生じはじめる。しかしダンサーは、近代化や現代の文明を象徴するかのようなノイズに挑む姿勢で踊り続ける。もがく、たたかう。そのなかで彼女は確実に、意識が覚醒したときとは異なるよろこびを得ているようだ。生きる、もがくことに対するセレブレーション。能動的に何かと戦う、挑むことではじめていきものはヒトになる、意志をもつことではじめて。

 「果肉03」は、いきものの一種であるヒトに意志が生まれて人間となっていく、そんな神話的な意味合いの強い作品だった。たしかな意志をもった人間の、葛藤しながら生きることへのよろこび、セレブレーションが感じられた。潔い、前向きな表現だった。しかし、ヒトとしての形をあらわしてからのもがく動きが無機的な環境のなかでもがく現代の人間を表しているのだとしたら、そのもがき方がちょっとわかりやすすぎたことは残念だった。電子音、機械的な音が薄っぺらい印象を与える。プラスチックに代表されるような無機的なものがあふれている環境、それだけが理由で私たちは葛藤したり、苦しんだりするのではない。生きていると、私たちは必ず何かにぶつかる。無機的なものはそれらの一部にすぎない。さらに、無機的なものを生み出してきたのはおそらく私たちだ。無機質なものは私たちを取り巻く世界の一部であるという視点をふまえた上での、もがき、生きる表現を見てみたい。より深みのある、現代の神話的世界が舞台上に生まれることを期待したい。