「伝えるカラダ、伝わるココロ。」―JCDN全国パフォーマンススペース間のダンス巡回プロジェクト「踊りにいくぜ!!Vol.2」

 (2001/10/10 大阪公演 @TORII HALL、2001/11/3 富山公演 @富山県民小劇場オルビス)

ライター/栂井理依

 昔、芸術において、精神が身体の主人なのか、身体こそが精神の主人なのか、問われた時代があったという。実際、当時、かのニーチェは「精神のことは身体にきけ」なんて言っている。しかし、現代に生きるわたしたち、それをとりまく環境を表現する身体表現であるコンテンポラリーダンスにおいて、そのどちらかに決めることは困難だ。むしろ、そのどちらかへ限定してしまうことは、身体の可能性を限定してしまうことであり、新たな可能性を問いつづけることに重要な意味があるコンテンポラリーダンスに、致命的な崩壊をもたらすように思う。

 コンテンポラリーダンスの最大の魅力は、様々な身体の在り様だ。実は、わたしはダンスを観ていても、あまり動きや展開、それらが生み出す意味を観ていないことが多い。意味よりも、それらがきっかけとなって与えてくれる自分自身のココロの世界へと夢想してしまっていることが多いのだ。そんなわたしにとって大事なのは、ダンサーの立つ空間そのものの力なのである。それはつまり、劇場という1つの空間に、人がどう存在しているかという身体の在り様だ。そして、結局それは、その身体の在り様を選んでいる、ダンサーの精神の在り様でもある。その意味において、身体と精神のイーブンな均衡こそが、コンテンポラリーダンスに求められる、ダンサーの人間としてのリアリティを生み出すのかもしれない。

 さて、今年で第2回目を迎える、JCDN主催の全国ダンス巡回プロジェクト、「踊りに行くぜ!」。わたしは10月10日の大阪公演(TORII HALL)と、11月3日の富山公演(富山県民小劇場オルビス)を観た。

 その中で印象に残った数名を挙げると、「身体の在り様」を素直に感じさせてくれたのは、山田せつ子の「夢見る大地」(富山公演)だった。微細な手の振動などの身体の動きに付随して、彼女は、身体をとりまく空気自体を変質させていく。この作品のきっかけとなり、作中でも使用されている、ブラジルのある音楽家が収集した民族の歌声の細かなリズムに合わせて、その変質した空気が周囲に伝播し、身体からオーラが発せられているかのように、舞台空間そのものがカタルシスの熱を帯びていくのだ。それは、繰り返される人間の営みの中で、時を超えて様々な人や出来事との出遭いを夢見る大地の神秘を感じさせるものだった。ダンスとは、身体のみの動きではなく、周囲をとりまく空気をふくめてダンスというのだ、と確認させられる。その点では、山田が主宰するダンスカンパニー枇杷系のメンバーである天野由紀子の「C◎NPEIT◎」(大阪公演)も同様だった。冒頭では、あどけない表情にオレンジ色のワンピースを着た人形のような女の子が、首に緑の毛糸をまきつけて寝転んでいる。動き出した人形は、転がっている毛糸の玉から糸をひっぱりだし、舞台上に斜めに引いたり、客席と垂直に引いたりして、空間をしきり始める。天野はそういった毛糸の「束縛」から生まれる「自由」の範囲内で、動きを作っていく。制限の中で動くその身体は痛々しくもある。しかし、徐々にスピードを増していく動きに対して、一瞬何かが解放へと向う甘さもある。毛糸を自らの身体へとぐるぐるまきつけていくラストシーンは圧巻。ひとのココロのサディティック・エネルギーが浮き彫りになる、狂気とも言える一瞬を生み出していた。そしてそれは、制約の多い現代社会の中で、人間として、表現者として、「自由と束縛」「甘さと痛さ」を求める一人の女性を見た気もした。

 また、山崎広太の「JUNK」(富山公演)は、1人の人間でも、身体の在り様はもちろん精神の在り様も、けっして固定はしておらず、変化をしつつあるものだということを教えてくれたという意味で、興味深い作品だった。まず、今までのクールでスタイリッシュな山崎広太をイメージして、この作品に臨んだ人は、びっくりしたに違いない。なぜなら、白塗りで、頭にオレンジ色の花をつけ、首にはまるで血を垂れ流すかのように赤い布切れをまきつけた山崎が、脚立を首と足に通した姿で登場したのだ。まさに様々なものを取ってつけた山崎自身が「ごみ」のような存在。そんな彼が、舞踏を取り入れた動きで、つま先だけで立ち、全身のバランスを弄ぶかのように、腰で拍子をとりながら、硬質な印象を受ける肉体を浮遊させていく。照明を受け、舞台後方の壁に、山崎の影が幾つも映し出される。最初は、炎の中で悶えるJunkな男のように見えていたのが、その浮遊感に連れられてか次第に、千手観音像のような神々しい存在へと見えてくる。そんなふうに1つの身体が、まるで2つの身体であるかのように2つのイメージを生み出すのは、ごみに象徴される醜く不必要だとされる存在も、神に象徴される美しく清く愛される存在も、結局は同じなのだという彼のココロの為せる技ではなかったか。

 さらに、明確なテーマ設定による緻密な作品構成で、身体の在り様を浮かびあがらせた作品もあった。それは、奥睦美の「また来る2」 ―犬に捧げるオマージュ―(富山公演)と、前田紀和「身体の絵」(大阪公演)だった。

 まず、奥睦美の「また来る2」は、テーマは「犬」とシンプルに設定。「犬」に扮した全身黒の衣装の奥が、劇場のあちこちから「毛皮」を発見して、舞台上へ持ってあがってくる。それを触ったり撫でたりした後、自分の黒ブルマーの中へしまいこむ。その発見する「毛皮」はどんどん大きくなっていき、もちろん、奥のブルマーはぱんぱんに膨らんでいく。「犬」が毛皮の手触りを楽しむ風景。犬の目線になりきってしまうのではなく、微妙なところで人間の目線を取り入れる融合とアンバランス。会場のあちこちから漏れる笑い声を聞いていて思ったのは、身体表現における笑いはどこから生まれるのだろうということだった。単純に、奥の漫画のキャラクターをデフォルメしたような身体や表情の動きは奇抜だ。しかし同時に、「犬」を見つめる冷静でシニカルな視点と、恐ろしく間を意識したその動きは、むしろこの作品に乾いた佇まいを与えている。わたしたちは、瞬間瞬間、奥がしかけるその落差(ギャップ)にはまったり、裏切られたりで、笑わずにはいられない。でも、落差の発生という笑いの構図が、笑いへ転ぶか怒りへ転ぶかは、舞台の神によるところも多い。結局のところ、この作品が笑える作品として成立するのは、奥の愛すべき身体の存在感があってのことに違いない。

 観る、観られるという観客との関係性から発想し、身体の在り様を模索したのは、前田紀和の「身体の絵」である。この作品は、まず客席から始まる。気がつくと、客席の最後列に座っている前田。軽快なサザンのメロディに、無表情のまま踊り出し、果てには隣に座っている女性までまきこんでいく。それが、どうにも客席の笑いを誘う。その後、舞台へと出ていくのだが、舞台上では、舞台後方の壁に向けて照明が当ててあるため、前田がその空間に立つと、影絵のように彼の身体が白い背景に対して浮き出て見える。面白いのは、客席と舞台上とでは、前田の身体が全く違ったものに見えたことだ。「観る」側と同列にたっていた客席では、彼の身体は特別なものには見えなかった。誰もが持っている身体を同じように持っている1人の人間だった。しかし、その身体が「観られる」側=絵へとなったときには、大きく変貌する。精密な動きが美しいシルエットを生み出す。それは、ダンスが日常的な動作を単に非日常的に洗練させたものではなく、観客という存在あってのコミュニケーションを意識した身体の在り様でもあることを提示してくれている。

 そして、わたしはこうした様々なアーティストたちの身体表現に触れ、さらに次の一歩を試みる。その一歩とは、アーティストが伝えてくれたことに対するコミュニケーション、である。こうしてダンスを観ている自分とは何なのか。そして、カラダとは何か、ココロとは何か、それらを伝えるとはいったいどういうことなのか。自然に、ココロはそちらへと夢想していく。まさに、それがコンテンポラリーダンスの力であり、現代のわたしたちにとって必要な表現である理由なのだ。