「服を脱ぎ捨てても、服を着ても。」―JCDN全国パフォーマンススペース間のダンス巡回プロジェクト「踊りにいくぜ!!Vol.4」

 (2003/11/2-3 大阪公演 @Art Theater dB

ライター/高以良潤子

 「踊りに行くぜ!!」大阪公演は、前半3組のうち1番目と3番目に 、相似点がありながら対照的でもある女性ソロダンサーの作品が上演されるおもしろい組み合わせとなった。
 最初は、野口知子(兵庫)による「エレベーターガール」。
野口は、タイトル通り帽子をかぶって紺色の制服を身につけたエレベーターガール姿で登場。無音のなか、「上にまいります、下にまいります」という声が聞こえてきそうな、機械仕掛けの人形のようなパントマイム。愛想笑い。そこへ、無機質なドラムの音が加わると、変化が起きる。まわる動き。雑踏の音が重なり、エレベーターガールの仮面が崩れていく。身体が揺らいでいく。遠くから響 くせわしないサイレンのような音が重なる。地面にはいつくばり、帽子を手で押し上げる。白い手袋を口で引っ張って脱ぐ。頭を抱えて仰向けになり、表情は何かに憑かれたようで、気味の悪い笑いを浮かべながら暴れて行く。靴を脱ぐ。靴を、帽子を、壁にたたきつける。恍惚の表情を浮かべながら、でんぐりがえりなどをして床と戯れ、床をはいずりまわりながら、制服も脱ぎ捨て、投げつける…。負のオーラを放つ狂喜、もしくは狂気が放つ美しさめいたものが漂う。そして舞台前方に出てきて、立ち尽くす。もう何もまとっていない、素の、しかし悲しそうな表情の顔を乗せた肉体。肩を抱いて、前を見つめる表情には、哀愁が漂っている。でも、何故?彼女の見つめる先は何だろう。何も身にまとっていない自分に陶酔しているのだろうか?
 キレイなラストだった。しかし、日常生活でまとっている衣装、役割、ヨロイのようなものを脱ぎ捨てていく過程が描かれた作品なのに、実際に衣装を脱いで下着姿になっても、最後まで何かを脱ぎ捨て切れていない感じが残ったのは残念だった。たとえば最後に肩を抱いて舞台を見つめる表情が、ただ悲しい表情、ありきたりの陶酔ではなく、脱ぎ捨てたからこその素の肉体の存在感や素の表情の表出であってほしいと感じさせられた。

 3番目の高野美和子(東京)の「fragmentvol.4」は、ミサ曲のような神々しい音楽が暗転中に流れてはじまる。舞台下手奥に赤い照明で四角く区切られた空間が浮かび上がると、下着姿の背の高い女がたたずんでいる。顔は下向きにうなだれ、手には白いシャツをだらりとぶら下げ、床にはカツラが置かれている。女はゆっくりと、前髪が分厚いおかっぱのカツラを手にとり、遠くを見つめる。手に持っていた白いシャツを羽織り、スカートをはく。シャツのボタンはきちんと一番上まで留めて、すそはスカートのなかに入れる。赤い照明が消えた後、一歩一歩、ゆっくりと舞台前方へ進む。カツラ、スカート、シャツ、身につけたばかりのものたちの具合を確かめる動きを織り交ぜ
ながら、少しずつ。途中で固まる。止まる。進むこと、動くことが恐いかのように。上体を反らしたり、後ろに下がったり、少しずつ何かを、自分の体の動きと自分のまわりを確かめながら進んでいるように見える。ときに動きは小刻みに速くなり、またゆっくりに戻り、前に進むだけではなく、床に対して注意を払い、ときどき座り込んだり、寝転んだりとバリエーションが増えていく。だんだん知らない土地や世界に慣れて、臆病ながらも動きの幅を広げていくかのように。
 そんな動きの最中、ふと客席を凝視したときの目が印象的だった。常に何かに不安であるかのような、まわりに安心していない、そして何よりも自分に安心していない目。常に一人、孤独、という印象を受ける目。
 不安な動きが続くなか、「レディースアンドジェントルメン 」というかけ声がふさわしいようなドラム・ロールが若干控えめな音量で何度も鳴りはじめ、変化が現れる。つま先立ちになり、舞台奥の壁際まで進んでいく。せわしない3拍子の音楽に合わせて、小刻みに動きが速くなる。腕で床をふくような動きからは「もがいている」印象を受ける。身体は常に音楽のリズムに乗っているのだが、しかしどこか神経症的な小刻みな動きが続く。音量が上がると、腕は左右に大きく振られ、そして、はじめてしっかりと地面を踏みしめたかのように落ち着いて両足で立ち、両手で、次に片手で、空中の何かをつかもうとする…。何かに向かって祈るかのような、安心したような動き。し
かしそれも長くは続かず、伸びようとする手や上を向いていた頭は次第に重力に引っぱられて下を向いてしまう。気がつくと、舞台左手奥、作品のはじめに存在していた、照明で赤く四角く区切られた空間がふたたび現れている。そこへ引き寄せられるように進む高野。しかし、たどり着く前に赤の照明は消え、最初の繰り返しがはじまるのではないことを予感させる。赤い照明が消えると、舞台前方へ移動しながら、焦燥感、もどかしさを感じさせるせわしない動き、けいれん、ひきつれる、といった言葉を連想させる動きが続く。顔は下を向いたままで、正面を見ない。もがく、重力に引っ張られる、立ち上がりたい、立ち上がれない、立つことができてもそのまま立っていられない、つま先立ちしかできない、しっかりと立つことができない、怖くて。スカートのウエストが気になる、首が、衿が、胸が自分のものであるかどうかわからない、不安だ、よろよろとしかもう動けない、重力が私を引っ張る、重力に、負ける。
 ゆっくりと、床に転がっていく。床の上を、意志を失った身体が漂う感じ。照明がフェイドアウト。舞台奥で上に伸びる。落ち着いた、安心したという印象の動きとはまた違う、ただ、漂っているようなイメージだった。彼女のその最後の動きは、これからも変化しながら続くのだろうと思わせる、余韻を残したラストをつくりだしていた。
 日常で身につけている服や自分の社会的な役割に対する違和感。それを脱ぎ捨てたい、もしくは脱ぎ捨てたくなくても着心地の悪さを感じている、そして、動きにくさを感じている。ある人にとっては、それを脱ぎ捨ててしまうことが、生きるための一つの方法であろう。エレベーターガールを演じた野口が、衣服を激しく脱ぎ捨てていったように。しかしそこには、役割を脱ぎ捨てた、素の自分と向き合う強さもまた必要とされるだろう。そして、もう一つの方法は、その服を着続けること。高野のように、着心地をたしかめたり、自分の身体に合っていないウエストなどをいじったりしながら、その服を着て動く自分の動きをためしていくこと。すべて脱いで立ち止まっても、服を着て動いても、どちらの肉体にも悲しさと違和感はやはり存在するのだけれど…。2つの作品を通じて、そんなせつなさを感じた。