「解剖のダンス−手塚夏子の作品世界−手塚夏子「私的解剖実験」シリーズ

 (28/11/2001 @Design Festa「私的解剖実験地図」)
 (9/1/2002 @STスポットin横浜「私的解剖実験2」)

ダンス批評家/木村覚

 手塚の「私的解剖実験(地図)」シリーズは、およそ一般的なダンスの概念から激しく逸脱している。彼女の身体は、なんらかの意味を表現する役目をすっかり放棄しているからだ。ひとつの意味を伝えるためにひとつのイメージを担うそんな「ひとつの身体」ではない。その代わりに、彼女の身体は、各部位、各関節が断片となって、ただそれぞれが自分自身の言葉を語り出すためだけに舞台の上にのせられる。身体を意味の表現から解放するように解剖のメスを入れ、あらわになった神経の一本一本の働きを確認する実験、それが手塚の作品であり、そのすべてなのだ。僕はそれを「解剖のダンス」あるいは「神経系統のダンス」と呼んでみたい。
 去年十一月、原宿での公演(「私的解剖実験地図」@Design Festa(原宿)、28/11/2001)で僕は初めて彼女の「私的解剖実験」を見た。元アパートだった一室をギャラリーに改造した小部屋。暗転後デスクライトが灯されると、その脇に、真っ白なワンピース姿の手塚が元は押し入れだったろう段の上にちょこんと座っている。小さな部屋の小さな押入の世界。そこで身体の各部位をひとつひとつ確認(解剖)してゆくように、「実験」が進められてゆく。演目がその過程を最もよく伝えてくれるだろう。「1.方向  (目、顔、上下に左右に)、2.人工関節−1−蛇行−(蛇のおもちゃとともに)、3.小さな拮抗  (手のダンス)、4.機能確認および拡張(顔)、5.いろんな命令、から  (さまざまな体の部位、脚)、6.人工関節−2(鹿のおもちゃとともに)」(括弧内の説明は筆者による)。
 「人工関節」の二つのパートを除けば、目、手、顔、脚と、身体のパーツにひとつずつ注目しながら、彼女はそのさらに細部のいちいちに「命令」を与え、それぞれの運動経路を「確認」してゆく。「命令」は、神経がひとりでに踊り出す最初の刺激に過ぎない。その刺激によって、からだは、普段僕たちが接しているのとは違う姿をあらわにしはじめる。例えば「3.小さな拮抗」では手がひとつの単位になって動く。すると、五体が構成する「大」の文字のような姿、両手両足のつくる左右対称の姿とはまったく違う、蟹を半分に割ったような手の形がひとつの単位となって迫ってきて、生理的な嫌悪感を与える。手というのはそれだけをじっと見つめると確かに奇妙なバランスをしているものだ。脊椎動物のバランスではない、クラゲとかイソギンチャクとかに似ている。僕たちはそんな形に普段気づくことはない。もちろん僕たちは特殊な事情のない限り、自分の手を携えて生きてはいる。けれど普段手は何かの目的の道具に甘んじていて、その独特な形状が僕たちの前に立ちあらわれてくることはまずない。手塚の解剖は嫌悪感とともに、隠されていた手の実存を感じさせる。手という単位からもさらに自由になって、五本の指のそれぞれ、いやそのもっと細部、関節のいちいちは同時に一斉に自らを語りはじめる。モノとしての身体の姿が、こうして身体各部位の至るところであらわになってゆく。
 ひとつのイメージに奉仕することのない関節のひとつひとつの動き、その静かなふるえ、複数の神経の交感そのものが彼女のダンスのアルファでありオメガなのだ。
  彼女の細部へ向かう意思は、貸し出されたおもちゃのオペラグラスにもよくあらわれている。観客はそれを使って、2メートルと離れていない彼女をのぞき込むよう促される。彼女の白い服には所々小さな米粒くらいの人形が付いていて(それは最初、塵か何かとしか見えなかった)、それがまたこの道具を使う誘い水にもなっている。おもちゃなので実際効果的とは言いがたいのだけれど、この道具がきっかけになって、人形との対比で手塚の小さな身体が一瞬巨人のように見えたり、細部に注目することで近くのものでも見尽くし得ない何か遠いものに思えたり、そんな視覚の錯乱が起きたのも事実だ。こういうアイデアも彼女の作品の魅力のひとつだろう。
 他なるものの表現媒体として支配されることをやめて、身体それ自体が語り出す。そんな手塚の作品世界の可能性について、例えば二十世紀ドイツの哲学者ベンヤミンがシュルレアリスムの試みに期待した身体の可能性と類似しているとしてみよう。ベンヤミンはシュルレアリストたちの試みのなかに、「自我」などという統一の契機を克服して、「ひとつの行動自体がイメージを自分のなかから現出させ、それ自体イメージであり、イメージを自分のなかに巻き込んで食らうところではどこでも、(中略)イメージの空間が開ける」(517)、そんな革命的な瞬間を見た。身体空間とも言い換えられる「この空間では、政治的唯物論と肉体被造物とが、内面的人間とか魂とか個人とかその他それらに属する、普通なら私たちが非難したくなるものを、弁証法的な公正さに従ってあらゆる部分をばらばらに引き裂いたうえで、共有することになるのである」(517)。非人間的と言うべき強烈な断片(部分)の肯定。手塚の試みに、僕はこの革命的な肯定へのかすかな手触りを感じてしまう。この僕の「私的」夢想が手塚自身の想定する「私的解剖実験」の作品観とぴったり合致しているかは分からない。けれども、数多あるダンスとは恐ろしくかけ離れた異界で踊る彼女に懸ける期待としては、ベンヤミンの言う「唯物論的人間学」は多分まったくの見当違いということにはならないと思う。

  ■■■■  ■■■■  ■■■■  ■■■■  ■■■■  ■■■■

  今年の一月に行われた最新作(「私的解剖実験2」@STスポット(横浜)、9/1/2002)は、作品としての完成度を増していた。これを見てしまうと、前回のそれは「私的解剖実験」の試作で、いわば「実験」作品の実験に過ぎなかったと言わざるを得ない。三方を観客が囲むようにして敷かれた1.5メートル四方の白いボード、それが今回の舞台となる。相撲の土俵を1/5スケールにしたくらいの本当に小さな箱庭的舞台、それは床の白いボードとそれ以外の背景の黒とがセンスを感じさせる、清潔感ある妙に落ち着く小空間になっている。この小ささは彼女の企みに相応しい。彼女がこれからするのは「ひとつの身体」が縦横無尽に動き回るダンスではなく、むしろ動きの優美を一旦壊死させ、自分の身体を被検体にした「私的」な「解剖実験」なのだから。黒いブラウスに薄黄色のスカート姿でフッと脇から登場した手塚は、この白い解剖台に仰向けに寝ころんだ。全長20分の解剖のダンスが始まった。
 音楽のない無色のスポットのなか、最初の一分ほどは、じっと寝そべっているだけのように見える。けれどよく見ると、彼女のからだのあちこちではすでに静かな微動が徐々にはじまっている。しばらくすると四角いスポットが腕や足などからだの部位を切り分けるようにそれぞれを照らし始めた。「ビクッ」「ビクッ」と、からだのさまざまな場所で同時多発的に痙攣が繰り返され、次第にそれは激しくなってゆく。それは解剖のダンスあるいは神経系統のダンスと言ったところか。神経のもつ随意的な側面とそれと正反対の不随意的な側面(交感神経と副交感神経)とがさまざまな場所で交錯し、葛藤を起こしつつ、対話をしているようだ。
 解剖は基本的に医者が死体に対して施すものだが、手塚の「解剖」は、自らが医者となりまた被検体となって生きた自分を自ら開いてみせる。意味の象徴として身体を道具にしようとするそんなヒューマンな意志にメスを入れ、モノとしての身体の自由な動きをあらわにするためにそれを引き剥がす。そのうえで神経の交感のありさまを実験してゆく。
 それはブラックジャックが自分自身をオペする異様なシーンを思い起こさせた。野原に寝そべりただ鏡だけを頼りに、この天才外科医は、局所麻酔を施した自らのからだに自らの手でメスを入れてゆく。子供の頃はじめて読んだ僕は、その無気味なシーンに強烈なスリルを感じた。「天才的な技をもつこの外科医も、オペの途中でもし麻酔がメスを握る手にまで及んだとしたら、その力を発揮することなく、切り開かれた患部を縫合することもなく、ただ野に晒されることになるのではないか!」もちろん手塚の「解剖」はひとつの比喩に過ぎない。けれども、麻酔をかけたように身体を意味への従属から解放してゆくそのさまには、確かに意識と意識の消滅の端境を生きている身体のスリルがあるのだ。
 「解剖」の企みは、ますます意識から自由になって、身体の無節操な動きは留まることなくどんどん活性化してゆく。
 完全に横になった姿勢からからだを起こして、次のシークェンスが始まる。床全面が赤、緑、ピンクなどのスポットで変化するなか、基本的にはしゃがんだ姿勢に腕を大きく広げ、まるでひきつった小児麻痺のからだのような姿で、不随意な神経の暴走のバリエーションを展開する(ここまでの小題は「私的な解剖」)。次の「実践その1」というパートでは、もはやばらばらになってしまった神経ずたずたのからだが、湯飲みに入ったお茶をゆっくり手にしてゆっくり飲んでゆっくりお盆に返すまでが展開される。湯飲みをとろうとする意志に、自由を得た身体は素直に従わない。意志が身体と葛藤しうまくゆかず何度も湯飲みを落としそうになる。   
 その後、意志の鎖を解かれたからだは、「感情のカレイドスコープ」のパートへと引き継がれる。それは正座した状態で特に顔を変化させていくもの。「顔」の表情がつぎつぎ変化してゆく、その印象を指してタイトルに「感情」という言葉をあてたのだろう、しかしそれはあくまでも括弧付きでなければならない。口や目の様子から声が出ていたら「ハー」「ムー」「ヌー」「ア゛ー」とでも聞こえてきそうな表情は、確かにそれぞれが「喜び」や「怒り」や「悲しみ」や「驚き」などをあらわしていると言えないことはない。でもそもそもこの身体のどこにも、もはや、そのような感情を携えたヒューマンな主体は潜んでいないのだ。だからその表情は感情のあらわれとして「見える」だけでしかない。解剖のイメージに絡めて喩えるならば、まるで弛緩した死体の瞼を指でつまんで持ち上げ、唇の形を頬をつかみつつ変形させてみる、そんなグロテスクな遊びをしているようだ。意味を欠いたただの顔に表情を付けてみる戯れの実験。それは声を出して笑ってしまいそうなほどおかしくまた怖くもなる光景だった。
 最後のパート(「弛緩とリズム」)では、立ち上がり、軽いジャズに合わせたいわゆる「ダンス」をしてみせた。手塚の「ダンス」は年末の「偶然の果実」(「偶然の果実42」@大倉山記念館ホール、11/12/2001)に出演したときにも見ることができた。そのときは胴体が基本的に硬直した観音のような姿勢で、手と足がわずかに音楽のリズムに反応しているという感じだった。今回は腰がさらに柔軟になってからだの自由度が増している。弛緩した身体の各部分が、重心を保とうとするわずかな腰の力に支えられてブラブラズルズルとリズムに反応している。腕が勝手に何十回もブンブン振り回される。倒れそうだ。けれど彼女はひたすらこの解体寸前の身体の動きをなおも出来るだけ身体に任せようとする。暴れるように強烈に踊るダンスは、去年のエポックとなった天野由起子の作品のなかでも見ることは出来た。でも二人の感触は異なる。天野の場合、暴走のダンスは作品の内容を語るひとつの構成要素だったのに対し、手塚の場合には、冒頭からはじまっていた身体各部の自己主張がクライマックスに達して、意味から無限に隔たった末生まれた動きだからだろう。
 最後の最後(「実践その2」)、まだ暴れることを止められないからだに無理に押し込むようにビールを飲み干し実験は終了した。

   ■■■■  ■■■■  ■■■■  ■■■■  ■■■■  ■■■■
 
 さてニブロールの新作『コーヒー』への参加を果たした後、彼女は新たな解剖実験の試みに挑戦するという。四月に予定されている「第一回私的解剖実験〜ダブルス〜」は、その題から察するに、自分の身体だけを被検体にしてきたこれまでの実験を発展させ、共演者(田村彩)とともに二つの身体の関わりを解剖する試みらしい。
 ここで再びベンヤミンの思考を招聘してみたい。ベンヤミンは、砕け散った諸々の断片が星座のようにある姿を仄めかす瞬間をアレゴリーと呼んだ。断片の集まりが星座となるのは、断片と断片の間に二つを連絡する一本の見えない糸を見つけたときだ。彼女の模索してきた解剖のダンスは、この不可視の経路のうえに繰り広げられてきた。この経路を自分の身体のなかだけでなく別の身体との関わりのなかに探し求めてゆくこと、きっとそれが次の「ダブルス」のテーマとなるだろう。そこに「身体空間」の絶対の自由が求められ、生み出されることを僕はひたすら期待している。

* W・ベンヤミンからの引用はすべて『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫)を参照した。