手塚夏子「私的解剖実験2」

 (9/1/2002 @STスポットin横浜「私的解剖実験2」)

ダンス批評家/武藤大祐

 スタスタスタと歩いてきていきなり、白いパネルの上に仰向けになる。広さはわずか畳二枚分。解剖台の上の手塚夏子、ショッカーに改造される本郷猛に似ている(シーンタイトル「私的な解剖」)。

 一体この体勢からどうしようというのか?などと思っていると、足の指が全部力いっぱい開いて、腱が甲にメキメキ浮き出してきた。来た来た来た。全身がガクガク震え始め、肘が、肩がねじれ、首がガタンガタンと持ち上がる。膝が、足首が、間違った方向に折れてのたうち回る。ここでは人間の関節は“(そのように)曲がる”という自由ではなく、“(そのようにしか)曲がらない”という不自由のシンボルである。なんでこっちに、もっとこう……(グググ)……(グググ)……(バキ!)。交通事故、転落事故、骨折、脱臼、ムチ打ち症。徹底的に壊れる手塚の身体を前に、浮かんでくるイメージがみんな不謹慎で困る。

 そもそも全背面が床に触れているという状態からしてヒトの基本的な生き姿ではないわけだが、二足歩行を知らぬままその全身を直に支配せんとする地球の引力に盲滅法抗うさまは、生まれたての仔鹿がブルブル立ち上がるのよりもはるかに原初的だと言える。なぜならここでは精妙な自然の生体メカニズムがはなから無視されてしまっているのだから。それでもどうにか試行錯誤の末、膝をついて立つことを発明した所でなぜかお茶の時間。のんびり運ばれてくる(「実践その1」)。しかしもちろんお茶を飲む、という行為さえ必要に駆られてそうするのではなく、ただヒトの身振りを猿真似しただけのエイリアンみたいに見えるのだが、こういう表現に芝居が一切入っていない。あくまでも筋肉の事情だけ。そこが手塚のスゴさだ。

 第二部「感情のカレイドスコープ」は例によって顔芸。眼を思い切り開く(眼球が転がり出るほど)、頬を激しくつり上げる(頬骨が砕けるくらい)、口をめいっぱい開く(唇の端が裂けるまで)。表情筋を限界ギリギリへと過剰に展開する手塚の顔芸は、いやでも生まれてくる表情の意味を暴力的に圧し潰し、剥ぎ取ってしまう。単なる表情筋の働きである限りでの顔の形は、表情以前でありながら表情を超えている。“顔”ならざる顔。壮絶な憎悪や驚愕の表情に見えるものは、いわばお面のように隅から隅まで形式的な作為(?)の所産であるがゆえに、具体的には何の内容も読み取ることができない。どんなにそれが悲惨でも。何の意味もありはしない。魂や情念に見棄てられた、空虚な筋肉の集合体。19世紀の神経病理学者シャルコーに撮影されたあのヒステリー患者たちのように、手塚は被検体として自身のA to Zを赤裸々に晒す。

 第三部「弛緩とリズム」で手塚はついに両脚で直立を遂げつつ、脱皮したてのように使い慣れない制御不能の体で暴れ狂う。ソニー・ロリンズ「St.Thomas」をバックに、ブランッブランッと猛烈な勢いで振り回される腕がちぎれてこっちに飛んできそう。全身の神経のネットワークが至る所で切れており、至る所で新たに癒着してしまっている。もちろん足腰だって正常には機能していない。ギクシャクしながら強引に、たまたま運良く立っているに過ぎない。ラストはまたビールのジョッキが運ばれてきて、飲み干して終わる(「実践その2」)。今さらオチなんか付けられても……笑いなどこみ上げてこない。圧倒的な迫力の余韻が残っていてこっちも体からヘンな力が抜けない。

 たった20分弱だが、恐ろしいまでのテンションが傾けられた濃密な時間だった。手塚の今回の作品が抜きん出て優れているのは、場面場面のコンセプト(ネタ)が、ただそれを見せるという次元に留まらず明らかにダンス的快楽へと接続されている所だ。簡単には真似のできないムチャな運動の中にも不可解なリズムがくっきりと流れているから、観客はこの前代未聞のダンスをそれぞれの仕方で共有しつつ楽しむことができる。自然の生体メカニズムを無視して行き当たりばったりの試行錯誤を繰り返し、とうとう一から体を立ち上げてみせる科学実験的パフォーマンスは、同時にまったくの無からダンスを立ち上げてみせる芸術の実験に他ならなかった。非常識なまでの小規模で密かに行われている超マイナー公演。しかしこれは、絶対的に新しいダンスだ。