「駐車禁止−ニブロール

 (12/9/2001 @第六回芸術見本市(有楽町)「駐車禁止」)

ダンス批評家/木村覚

 「駐車禁止」のテーマは「路上の出来事」だ。東京の路上。男二人が向かい合って、「東京に出てきました」という言葉が発せられ始まる。この変わったテーマが、恋愛や友情や死や自己存在など(ヒューマンな人間関係)をテーマとするどんな舞台よりも個性的な光景を生み出すことになる。路上の主人公は人間ではなく機械(車や信号機や遮断機などあるいは路上の一部としての人間)だ。そこでは人間的なものよりも機械的な運動、力、あるいは暴力がひっきりなしにうごめいている。登場人物達は人間と言うよりも非情な機械となって、他者に絡まる、絡まれる。実際の駐車禁止の路面がそうであるように、車が頻繁に行き交いそこに自分一人が居座ることは許されない。そこには残酷な他者から/への暴力が偏在する。自分の場所を主張することは他者を圧することと不可分ではない。獲得した自分の場には、常に他者からの介入が迫っている。

  決して肉体派ではない若い華奢な感じの男二人と女三人。五人がそれぞれ繰り返し別の誰かを叩き、つかみ、振り回し、蹴飛ばし、突き飛ばし、それでいて感情をあらわにしない。なぜ相手にそのようなことをするのか。そのような個人の内面を探る問いはあまり意味がない。彼らは機械を擬人化する(人が機械になることで機械に感情を語らせる)のではなく自分を機械化する。それは例えば中地義和(『ランボー 精霊と道化の間』のなかで)が、ランボーの詩「酔いしれた船」を「船の擬人化」というよりもむしろ「詩人のもの化」の問題、つまり「物質の世界にとって異質な人間性の抹消」の問題と考えたことを想起させる。舞台上の男女は路上の世界にとって異質な人間性を抹消し、自らを路上のパーツと化す。ランボーの詩の中で「船」が言葉を語る能力を付与されたことによって「語る船」になったように、この作品なかでは路上の機械的な運動がダンスする能力を付与され、「ダンスする路上」が舞台に構成される。

 相手に触れる、そのことが嫌応なしに暴力になってしまう機械のコミュニケーション。それはけれどもとても人間的な出来事のようにも思える。「ヒューマン」という観念のもつ人間関係の虚飾が人間の機械化によって取り払われたとき、むしろそこに露骨に剥き出しにされるのは人間の実相である。そのような虚像の覆いを取り外す行為を、若い華奢な感じのする普通の男と女の身体がやってみせる。華奢な体をぶんぶん振り回しながら、その暴力は今生きていることの真相を告げようとしている。ふと身をよろめかしたことが、隣の人のバランスを失わせ、次々と並んでいる人たちを将棋倒しにする。腕を横に伸ばして後ろ歩きすると前を歩いてくる隣の人の胸を叩いてしまう。"Hello, nice to meet you."と路上で交わす挨拶は、感情を欠いて、すれ違いを(出会っていないことを)あからさまにする。そんな接触の関係だけが繰り返される。その暴力の光景が真実を告げているからだろう、不思議と涙がこぼれてくる。とても繊細で嘘を許さないまなざしが作品を貫いているように思われた。

 駐車禁止を命じられる憩うことのない場所は拡大してゆき、背景のスクリーンに映る東京湾を次第に席巻して、いつか海を路面へと埋め立ててしまう。最終場面、この消えゆく海には穏やかな表情をした女の顔が映っているのだが、舞台上の三人の女達が仰向けに倒れた(死を暗示する)姿と連動して、いつか路上の下に海と共に埋もれていってしまう。