二人あそびー観客をまきこんで―砂連尾理+寺田みさこ「ユラフ」

 (2002/11/24 @伊丹アイホール

ライター/高以良潤子

 小学校で、授業が終わった放課後、友達と二人で遊ぶ。一人で遊ぶのも好きだけど、気の合う友達となら、二人のほうが何倍も楽しい。夢中で遊んで、どれだけ遊んでも遊び足りない。一緒にゲームをして勝ったり負けたり、ときどきは離れて違うことをしていたり…。楽しい時間はどんどん過ぎて、いつのまにかまわりが暗くなって、家に帰らなければいけない時間がやってくる。

 「ユラフ」は、一人遊びも好きな二人が、二人で遊ぶことを楽しんでいる、そんな舞台だった。黒板にチョークでせわしく何か書く音が印象的。学校の教室のノスタルジックな感覚と同時に、私たちのまわりを常に流れていく情報を思わせる。じょじょに照明が入り、黒いコンパクトな衣装に身を包んだ砂連尾が浮かび上がる。自分の頭をなでたり、手をつないで輪にした腕を流れるように動かしたりと、自分の体とその可能性をていねいに確かめているような動き。そこへ同じく黒い巻きスカートの寺田があらわれる。コミカルで、軽やかな動き。黒が基調だがスカートの裏地やズボンのラインなど、ポイントに赤を配した衣装をまとった二人の動きはときに重なりあうが、同じ振りは続かない。同じではないが、お互いが響き合う動きが繰り広げられる。器用でカッコ良く、しかし常に何かに挑もうとするような必死さを感じさせる寺田と、ひょうひょうとマイペースさを崩さない、場の軸のような存在感の砂連尾。砂連尾がすばやい動きの寺田に翻弄されているように見える場面がある一方で、違う場面では砂連尾を中心に舞台が回っているかのような印象もある。同じ空間にありながら違う個性をもつ二人の対比。ばらばらではなく、かかわりあいつつ独立する二人のさまざまな関係性。片方が静止し片方が踊り続けるなど、二人が自分の体と空間との多面的なかかわり合いの開拓をー遊びを、楽しんでいく。変化する音楽は、社会や私たちを取り巻く環境の変化を連想させる。

 上半身が赤い上着に変わると、砂連尾が赤い紙ふぶきを撒く。黒い舞台、黒い衣装にくっきりとした赤のコントラストが映える。全身から「こんなに楽しい!みてみて!楽しい!」というメッセージが沸いてきているような、遊びのクライマックス。

 一人と二人のコントラストが明確だったのが、中盤の1場面。二人が靴を脱ぎ、赤い上着を手に持ってそれぞれ自分の靴のまわりをはたく。必死に二人ともはたき続けるさまが観客の笑いを誘う。お互いのスペースには踏み込まずにはたいているのに、陣取りゲームか、何かの競争をしているかのような真剣さだが、しばらくするといったん照明が落ちる。再び照明が点くと、寺田がいない。同じ位置で、砂連尾が一人で変わらず靴のまわりをはたいている。砂連尾は一人でも楽しそうなのだが、その動きは寺田と一緒のときほど熱狂的ではなく、一人で靴をはたく砂連尾の姿がせつない。一人だと、はたき方さえぎこちなく見えてしまうようだ。もう一度暗転のあと、黒い服に戻った二人があらわれると舞台には安心感が漂う。それは、変化を経て本来のかたちに戻ったという安堵の感覚である。

 それから、何事もなくはじめに戻ったように二人のダンスがー遊びが続く。黒板を打つチョークの音、繰り返し。この繰り返しは、精一杯遊んだ一日が終わってまた同じ一日がはじまる感覚と同じだ。でも昨日と今日はちょっと違う。子どものころは、遊びつかれても帰る家があった。ちょっとさみしくてもまた明日も遊べる、明日も同じ楽しい時間がやってくると信じて友達にさよならを言った。でも、舞台の上の二人はもう大人で、遊び終わっても明日が今日と同じ一日ではないことを知っている。まわりも、自分も変化して、ただの繰り返しじゃない。二人の振りも、昨日とは少し違う。そして、また小さなクライマックスがやってくる。寺田が、砂連尾が足を高く上げる。高く伸びようとする二人。その動きにはオープニングよりも意志のようなものが感じられ、より前を、新しいものがある方を向いているようだ。チョークと黒板の音響にやがて新たな音が重なり、違う音楽に変わっている。二人は足を上げ、さらに伸びようとして…、その連続で、照明がフェイドアウト。

 男と女という違う属性、違う身体をもった砂連尾と寺田の二人が響き合いながら、ささやかでも楽しいことを大切にしながら、楽しく、美しく、踊り続ける。「楽しい」空間。「楽しい」という感覚を共有すること。自分と、踊る相手と、空間と、音と、光と、まわりにあるなにかとかかわりながら。生活を楽しむ、趣味を楽しむ、瞬間を楽しむ…。楽しいことも、楽しみかたも人それぞれだ。でも、楽しいという感覚を形にしたり、人に伝えるのは難しく、お仕着せではない自分なりの楽しさや楽しいことを見つけ出すのはそれほど簡単なことではない。ただ確かなのは、誰かといるとき、その人が楽しいとそこにいる他の人は楽しい、ということ。舞台上で楽しく踊る、遊ぶ二人を見ながら、観客はその楽しさを共有することができたのではないか。二人のダンスは、「楽しい」という感覚を確認させてくれるものだった。