随筆|作品評

熱・エロス・自由・タナトス 

ヤリタミサコ(詩人)


 「逃げる」のは、過去の否定なのか、未来への跳躍なのか。放り出すことなのか、判断停止なのか。何からなのか、どこへなのか。意志なのか運命なのか。勇気ある亡命、生から死へ、死から生へ。急激な変更を自ら発生させる行為。
 自分に巻き付いている価値観から脱出するのが、女が逃げること。他人から名づけられた名前で呼ばれた自分ではなくなること。自分だけの自分には、名は不要。他人の視線の届かないもっと先に自由がある。理由は要らない。窮屈と感じた瞬間に、体は自由へと動き始める。
西松布咏さんの唄う遊女たちの心情とは「男から見た、こうであってほしい女心」とのこと。来ない男を待ついじらしい女心といった内容は、男の願望か。とすれば男の視点での「逃げる女」とは、異性の眼差しを撥ね返して自分の意志を貫く女だろう。男から見たら、傍若無人我儘勝手で筋道の通らない感情を奔出させる女。
 だから八百屋お七が火をつけるとき、高尾太夫が身受けを拒否するとき、男の論理では理解不能でアナーキーな狂気。しかし女にとっては自分の意志が阻まれることへの激しい抗議であり、自分の思いを実現するための身を滅ぼすほどの強い衝動である。損得ではない。本人ですら持てあますほどの熱なのだ。
寺田みさこさんの身体を通して内側から自噴してくるエネルギーが、静かな激しさをこちらへ送ってくる。タバコの煙をまとわりつかせるアンニュイな映像では、時に視線を撥ねつけるようだ。障子に映る影は、格子の縦横の線が女を束縛する縛りのように見え、息苦しくなる。しかし一転、明るい赤の金魚とコラボレーションでは自在に泳いでいる。寺田さんも金魚たちと同じく、屈託なく自然で誇り高く心のままに自由だ。高尾太夫もお七もその身体の死後には、この金魚や寺田さんのように魂の自由を獲得しただろう。自分が決意した死とは、究極の自由なのかもしれない。

 映像と寺田さんが都会の速度で逃げる女を提示するのに対して、布咏さんの唄は艶っぽい江戸の遊女の語り。現代のスピーディな女に対して、江戸の遊女は騙すも遊びも本気も浮気も入り混じっての情愛。男の理想を演じていると見せて、その実、女心の真実はその逆の逆?かもしれない。一夜の妻を演じ、恋人を演じ、執着も嫉妬も見せておいて、遊女たちは自分だけの心をそこからするっと逃れさせている。布咏さんの声は幾重にも重なった感情の、微妙な陰影を響かせる。速度と線で逃げる現代の女と、層と面で逃げる江戸の女。紙一重のエロスとタナトスが、唄に隠されている。
 布咏さんがカバーするヘレン・メリル「you’d be so nice to come home to」は、予想外の快楽だった。原曲のクールな溜息とは違って、湿度と陰りと恍惚の表現がすばらしい。恋人に会いたいと夢想するラブソングの歌詞に対してヘレン・メリルは乾いた表現をしているが、布咏さんの唄には待つ喜びと切なさが垣間見えていた。
 寺田さんの身体、布咏さんの唄、映像と光と影、一人の男、これらのレイヤーが一瞬重なり、また別の時間を進行し、ズレては衝突しながら、江戸と現代の男女の永遠のわからなさを描いている。スパークしては知らない顔をしてすれ違っていく男女。乾いている湿度、冷たい熱さ、速度のある緩やかさ、見るものであり見られるもの、男と女、真実の騙り、エロスとタナトス。

2011年12月10日(土)池上実相寺「ASYLアジール」公演
美紗の会たより第71号2012年1月発行より転載