今回の作品「ASYL」は恋愛モノなわけですが、古典の唄にも多くあるテーマですよね。
なにしろそれにつきちゃうようなところがありますよね。でも、古典の唄になるものは男が作ったものなんですよね。遊郭・遊女たちの思いを男たちが代弁して作ったものが多いです。季節の歌とか名所を情景描写しただけのものもありますけど、ほとんどって言っていいくらい、遊郭に身を置く女たちのつぶやき、溜息、切なる思いっていう、そういったものなんです。
ひた隠しにする、という、日本人の愛しさというものです。若い時は何もそういうのは感じませんでした。なんでもっとはっきり言わないの、とかね、そのように思ってましたけれども、この歳になるとそういったものをひた隠しにしてたり、大事に心の底に持ってたり、強がっているけど本当はいつもいつも怯えてる自分がいたりとか、そういうものがすごく見えたりすると愛おしくて、それを大事に唄ってあげたいな、と思うようになりましたねえ。
「ASYL」では「煙」もテーマになってます。煙草の煙ですね。消えてしまう煙と恋愛というのをかけてみたのですけども。
撮影:清水俊洋着想が面白いなと思いました。タバコの煙を思った時に、私はやはり自分がいつもその世界に近いもんだから、キセルのタバコの煙とかを思いました。煙っていうのは自由にどこでもいけるじゃないですか。で、消えちゃうじゃないですか。だからこそ、その一瞬っていうか、現在・過去・未来じゃないけど、そういうものはいろんな風に表現できるものでもあるし、ミステリアスな香りもするしっていうのでああいいなって思いました。
例えば私が縁切寺を想像した時に、ともかく離れたいわけじゃないですか、一緒にいた男と。離れると近くなるっていうのかしら。縁切寺に駆け込んだ女性が、男と離れた時にどういうふうにまた変化していくかっていう、そういうのも興味があるんですね。人間って一緒にいる時はなにも感じなくても離れていると、かえって近くなるっていうか、反作用っていうのかしらね。特に男と女なんていうのは。親子でもそうですよね。微妙さっていうのかな、そういうのが非常に興味深い。自分自身の中の変化も興味深いし、世間のいろいろな事件だとかドラマだとか、そういうのを見た時も人間だからこそ苦しんだりし傷つけあたりっていう。
だから最終的には、なんて人間って切ないんだろうとか儚いんだろうとか、弱いんだろうとかっていうことの中で、ものを表現できたらと感じています。
たとえば今のこの世の中はもう本当に荒廃しきっちゃって、っていうふうに私は思いたくないんです。だからこそお互いに大事にし合っていきたい。弱い者同士なんだから、みたいなところで。傷つけあうんじゃなくて、いたわり合って生きていきたいし表現する、そのために音楽なんていうのがあるんじゃないかなって思ってるもんだから。
踊りと一緒に演奏する場合もありますよね、日本舞踊とか。音楽と踊り、というのはどういう関係で舞台にあがるのでしょうか。
撮影:清水俊洋私はどっちかっていうと自分が表に立つよりも影にいて、私の声だとか三味線の音とか、そういったものがどういうに表現してもらえるだろうかっていうことが興味深いんです。そのために私の音楽を使っていただけたら嬉しい。一緒にやりましょう、とかじゃなくて、そこに入り込んでいきたいんですね。
よく見せようとか考えてはいなくいんです。ある人から「やりにくい」って言われたことがあって、全然私は意識してなかったんですけど、「唄で踊りの部分も全部表現しちゃっているからやりにくい」ってこと言われて。私は全然そういう気持ちはないんだけれども、悩んだことがあってね。全部表現しちゃうってそういうつもりはないんだけど。唄の中に自分が自然と入っちゃうみたいなところがあるんです。
空気っていうか、あえてあまり意識し合わないみたいなことも重要なんじゃないかしら。それぞれの世界があって、それが一つになるのですから。だからお互いに合わせようとか、妥協しあうとかじゃなくて、それぞれが一生懸命自分が表現したいものを表現しているうちに二つのものが一つになって融合していく。そういうのができたらいいなって思うんです。そういう唄と踊りが表現できたらって。
あえて意識はしないけども、一生懸命やっていくと2つのものが融合していく、というのは、とても面白い話です。かといって、距離を置いたままではなくて、近づくというか、一見矛盾するようですが、非常にしっくりくる話ですね。でも、誰とでも上手く融合できる、というわけでもなさそうですね。
撮影:清水俊洋その人同士、唄と踊りが持ってる感性っていうか、それを理解し合いながら、でないといけませんよね。だからあまりにも考え方がかけ離れた人同士がやるっていうよりも、どこか底辺のところでお互いに理解し合っているといいんです。無理して理解しようとするんじゃなくて、自然に「あ、この方はこういうことを大事にして表現しようとしているんだな」って感じ合える人とやることが、二つのものが一つになりうる要素。だからあまりにもかけ離れた考え方の人とはやってもうまくいかないですよね。
すこしおかしな質問かもしれませんが、西松さんが音楽家として表現をし続けているモチベーションってなんでしょうか?
古くさい考えかもしれないけど、相手のことを思えるっていうのかしらね。それが生きて行くことの喜び。結局自分の欲望とかそういったもので生きるってことは必ずどこかで無理があるでしょうし、限界があると私は思うのね。だから唄でも何でもそうだけど、人の心をつかめる、感動するっていうのは、そこのところではないかなと。相手を思いやれるとかっていう。宗教、ってそんな事あまり言いたくないんだけど、でも自分がね、ここまで生きてきて、それなりに恋愛をしてきて、傷ついたり傷付けあったりして、何が大切っていうか、生きられるかって言ったら結局は「誰のため」「誰かのためになっている」、そう思えてるうちは生きられるんじゃないかって思うから。自我っていうものが、誰かのためという風に転嫁した時にはじめて解き放たれる、楽になる。だから「忍耐力」とか「我慢する」っていうことじゃなくて、自然にそう思えるまで自分を見つめていく。
なにしろ逃げないってことなんでしょうね。いろんなものから逃げないで付きつめていくと必ず何かが見えてくる。私は唄をやって、もうわからない!できない!って、そんなことばっかりでしたけれども、ともかく続けていこうという中で、ようやく得られてきたものなんですね。
だから私の唄で人に何を伝えられるかって言ったら、自分が好きだと思ったら諦めないで、立ち止まらないで、一歩でもいいからやっていったら何か見えるわよ!っていう、ただそれだけ。好きならば続けて御覧なさいって。私の唄はこれからもきっとそうだろうなと思うから。