インタビュー #2
作・演出:飯名尚人「アジール」作品制作について、さらに語る。
撮影:JCDN<音楽:西松布咏>×<ダンス:寺田みさこ>×<作・演出・映像:飯名尚人>の「アジール」。2010年6月に2日間ほど飯名尚人と寺田みさ子が、京都:初音館スタジオで初顔合わせと、演出方法や作品制作の方向性のミーティングを行った。その後、飯名尚人は作品プロット・シナリオ制作に入り、寺田みさこ、西松布咏両氏に個別に作品プランを説明しワークを進めてきている。2011年2月にいよいよ3者が揃う初めてのリハーサルを行い、2011年3月25日には途中経過を発表する予定。昨年11月末、京都に会場下見に訪れた飯名尚人氏に、作品制作について語ってもらった。
インタビュー収録:2010年11月29日@京都JCDN事務局
聞き手:R.Mizuno(JCDN)
当事者の女性は、そのしたたかさに無自覚に行動してるんでしょうね。自分の恋愛事に無我夢中で。だけど、よその女の人をみると怖いわ、とか、すごいわね、なんて言って軽蔑したりする。
江戸時代の縁切寺の文献によると、たしか「お菊」って人の出戻り話があって。離縁したのに、又、前の男にもう一回戻りたいっていう、そういう自分勝手な理屈のために、縁切寺を利用する人もいたりとか、そのしたたかさっていうのは面白いですね。
今回の作品では、やたらとたばこを吸うシーンがあるようですね?
撮影:飯名尚人たばこは記号的っていうか、演技でジェームス・ディーンとか、ああいう人たちはタバコを吸う演技っていうのはないんだ、というところからですね。タバコを吸えばいいんだというアクターズスタジオの自然体リアリティ演技というか。ああなるほど、と。みさこさんはヘビースモーカーだと知って、それなら面白いなって。演技しなくていいから。たばこ吸っている人の姿っていうのはなんかこう、いいんですよね。缶コーヒー持って休憩している人より、たばこ吸って休憩してる人の方が、もしかしたら何も考えてないのかもしんないんだけど、その時間をちゃんと過ごしてる感じ。休んでるんじゃなくて、たばこを吸ってる、っていう時間になってるから、その存在感っていうのは結構面白いなと。舞台とかでタバコとか火というのはやりづらいし、今、タバコって高くなったり、禁煙ブームだし、そういう逆行している面白さもちょっとあります。
西松さんからも、煙草や煙管(キセル)が歌詞で登場する江戸端唄を教えて頂いたり、当時の遊女の煙草の意味、小道具としての機能、という話を教えてもらい、「煙草」と「煙」というものが作品の大きな要素になりました。
今回の企画はDANCE×MUSICがベーシックにありますが、最初のみさこさんと飯名さんのリハーサルで、「音楽に振付しない」というキーワードが出ましたね。その真意をお聞かせください。
文楽であったり、能や長唄のような伝統芸能の人たちが、どういう風なリハーサルをしているのかなっていう風に見たときに、必ずしも常に共演者で練習しあって出してるんじゃなくて、手合わせで“ポン”と。その日の演目はこうで、今日のミュージシャンはこの人で、っていうやり方で始める。それで最高のセッションと、インプロビゼーション(即興)として出来上がっちゃう。実際もうできているわけです。だから必ずしも「即興」っていうものが、ただ単にその場の感情表現のぶつかりあいじゃなくて、ものすごく計算されたインプロビゼーションとも言えるわけですね、この芸能のやり方は。
なるほど。ダンスで言えば、ボキャブラリーが少ないダンサーが一人で即興で踊っても、音楽家と即興やセッションしても、まあ普通は10分で見飽きてしまう。だけど徹底的にいろいろな身体の部位を使う動きの開発を覚え込ませたダンサーだとかなりおもしろいことになる、というフォーサイスのやり方のようなのもごく稀にありますね。
音とダンスが客観的にお互いを見るような作り方ができないものかっていうことです。一番怖いのは、ステレオタイプの感情移入なんです。音に対しても、踊りに対しても、盛り上がる動きの時に盛り上がる。どっちかが盛り下がると、両者が盛り下がってきて、悲しそうな動きの時はマイナーコードで、楽しそうなときは、っていう、そういうの、いわゆる失敗例でしょうね、即興演奏とか即興セッションの。それが即興のつまんなさだったりするわけです。
でも狂言とか能とか、なんか即興性があるんですよね。間のとり方とか、毎回違う。同じ演目だけど、毎回違て見えるわけです。その面白さを出すにはどうしたらいいのかなって思った時に、お互いがお互いで、しょっちゅう練習しあって出来上がったものが必ずしもピッタリあったものになるわけじゃない。あえて離す、距離を置くっていうことで、リズムではなくグルーヴが生まれる。あとはそのズレが重要だと考えています。
なるほど。それで、今回ぎりぎりまで西松さんとみさこさんと一緒にやらずに、別々につくっていくという方法なんですね。
京都 永運院。寺田みさこの撮影。撮影:JCDNそうです。西松さんと話したんですが、唄と三味線のズレの話。音楽と舞踊のズレ。そのズレが一番難しいんだって話を西松さんがされていて。そのズレっていうのは、皆さんおそらく目指してるところだと思うんですよね。ダンサーにしても。そういうものを演出していく場合に、どんなメソッドっていうか、リハーサルのプロセスが一番適切かと考えました。ミュージシャンとダンサーが相談しあって作って、はいコラボレーション、っていうのじゃなくて、演出家によってよく知らないままに共演者が集められた状態でセッションするって感じ。でもそれぞれには、演出家からストーリーや演出プランとかの情報が、伝わっているからそこで“ポン”て合わせたときに、お互いはお互いのつくってあるものを出す、合わせる。だけど、そこで同時にビジュアル(踊り)と音で出すわけだから、必然的にズレが生じてくる。でも合わせなきゃいけないとこは合わせなきゃいけないし、っていう作業が作為的にならずにできるんじゃないか、と。それが成功するかどうかはわかんない。だから考え方としてはその方法論で、しかも今度東京組と京都組で作るわけだから、それはしょうがない。
なので、音送るからこれにみさこさん振付してね、とか、ダンス創ってもらって、これに西松先生、音楽つけてください、みたいなのは一切しません。それぞれはそれぞれで進行しつつ、合体した時にそのズレを楽しむっていう。そういう意味では、それぞれ完成度が高くないとそうならないと思うんですよ。お互いがつくり上げてないと。
ふーん、おもしろいね。<音に振付する>という企画そのものを考えなおすという。そうなると完全に演出家の匙加減ひとつで決まるというか、コンダクター次第というか、演出家の役割が重要ですね。
そうですね、コンダクターかもしれない。その為には、プロットとかシナリオっていうのが役に立つんだと思うんですよ。それがなかったら、結局誰も何してんだかわかんない。でもシナリオ、プロット、舞台美術デザインとか、そういうものがあるから、そこに向かって、それぞれは迷ってもそこに向かっていけます。もし何もなかったらすぐ崩壊すると思います。結局今何を求められているのか、何するのかが、わかんないって多分ぎりぎりまで不安な状態で来るわけじゃないですか。それじゃさすがに不信感生まれますね。だからシナリオはちゃんとつくらないといけないんです。
そうですね、重要だと思います。私の知る範囲で言うと、ダンス作品つくるとき、振付家が作・演出を兼ねる場合ですが、プロットやシナリオをまずつくってから、振付に入るという人、かなり希少ですよ。
僕のやり方はビジネスマン的な発想かも。企画書を書くとか、報告書を書くとか、要するに相手に何をしたいか伝える時に必ず紙面にさせられるんです。会社にいると。僕は元々サラリーマンやってたので、そういう事は身にしみています。悪いことしたら始末書を書かされたりね。行為を言葉に直していくというか、書き言葉に最終的に残すっていう作業をしてきたから、言葉を拠り所にしないと、創作の拠り所がなくなるんです。でもダンサーとかミュージシャンは、書き言葉に依存しなくても、フィーリングであったり、その場の雰囲気であったり空気感っていうのでつくっていけます。だから、そこが特化して、本当にもう空気感とか、そんなもんだけで感性ってものだけを信じて作って行ける人はそれはそれで強い作家だなぁと思います。憧れます。ロジカルに言葉使って整理してっていう人も、それはそれでありで。
結局どっちでもないとか、どっちも中途半端なのがダメなパターンで、多分何も立ち現れてこないんだと思う。
飯名さんのように言葉で明確に示す方法を用いて来られて、ダンサーとの作品制作はうまくいっていますか?
撮影:JCDNダンサーからするとやりづらいと思う人が多いかもしれない。作業を言葉にしていくから。だってダンスは振付家がこういう風に踊りなさいって見せて、それをコピーしていけば実際はいいわけだから。振り写し、という作業ですね。あるいは、今感じていることをストレートに体に出す、ということで成立する芸術だったりします。理屈じゃない部分が多い。そこに対して言葉っていうのが入った途端に、もう頭で考えちゃうから体が動かないわけですよ。流れが止まる。僕はどっちかって言うと、動かなくさせてるんでしょうね。言葉を使って。僕にとって理想的なのは、言葉のような知識的、論理的なことを積み重ねていって、最終的にそれを忘れちゃうことが一番いい。考えて作るんだけど、セッションしたときに忘れていい、という感じ。ビジュアルにしたときに忘れていく。いろいろ酸欠になるぐらい考えて、もういいや、もう考える止めよーってなった時のダンスがものすごく面白いんです。でもほとんどの人が考えてる途中で、やっぱダンスっていうのは言葉じゃなくて感性だ、とか、感覚だ、とか言って考えるの諦めて都合のよい方向に軌道修正しちゃうからいけなんですね。それだとダメです。
今回は、<DANCE×MUSIC>にプラスして、MOVIEも入りました。どんな作風になりそうですか?
映像も使うし、どうなるでしょうねー。西松さんも凄い人だし、寺田さんも独自のスタイルを持ってキャリアがあって、ソロでも十分に見せられるし。それぞれ自立したスゴいアーティストなんで、ある意味外枠のストーリーとかそういったものがしっかりしていれば作品になるし、無くても多分それなりのものになるじゃないですか。セッションって。だけど一応演出って形で僕が入っているから、演出家としてどう仕組めるか、ということでしょうね。
恋愛話、アジール。大人な女の恋愛ダンス作品の行方は?
「煙にまく」という言葉があるように、どこかそういう煙のような展開にしたいと思ってます。
ありがとうございました。3月の京都での試演会を楽しみにしています。